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2010年 06月 19日

昭和61年・衆参ダブル選 中曽根「死んだふり解散」(産経新聞)

【参院選・戦いの足跡】(2)

 一世一代の賭けだったに違いない。昭和61年7月、時の首相、中曽根康弘(92)が仕掛けた史上2回目の衆参ダブル戦は、そのもくろみ通り、自民党の圧勝となった。

 前月、衆院の「死んだふり解散」に踏み切った中曽根。大義名分は衆院定数の違憲状態解消だったが、実際には政権安定、さらに同年10月に自民党総裁として2期目を終える自身の任期延長も狙いとみられていた。6月2日に召集された臨時国会は野党の反発で本会議が開かれず、恒例の万歳三唱の光景はなかった。

 当時、最大の政策懸案は国鉄分割民営化。労組の反発は強かった。中曽根は「国鉄解体を軸に戦後政治の総決算をやろうと考え、国民に信を問おうと思った。かなり勇気を要することだったが」と振り返る。

 首相自ら仕掛けた政局のうねり。だが、本人はいたって冷静に導き出した道筋だったようだ。「死んだふり、寝たふりといわれたが、解散の時期をあいまいにして、ぼかしていたんだ」

 この参院選、大阪選挙区ではもう一つの大きなうねりがあった。漫才師、西川きよし(63)の出馬と102万票を得てのトップ当選。「お笑い百万票」という言葉はこの時生まれた。

 公約は「福祉の充実」。もとは漫才の大先輩、人生幸朗・生恵幸子(いずれも故人)の言葉だった。「漫才しか知らんようでは社会人としてどうかと思うで」。高齢者、障害者施設などの慰問に誘われ、すでに20年来続けていた。

 「世の中には困っている人がたくさんいる。皆さんにお返しがしたい」。出馬表明の前、真っ先に相談したのが相方の横山やすし(故人)だった。「キー坊(西川きよしの愛称)、そらええこっちゃないかい」。スパッとした一言で賛成してくれた。

 無所属での初挑戦。組織も何もなく「基礎票は家内や両親らの5票だけ」だった。当初は世間の逆風も強く、「漫才師は漫才だけやってたらええんや」という中傷も浴びた。

 それでも、街頭演説では至るところで人だかりができた。「大きいことはできません。小さいことからコツコツと」。おなじみのフレーズは、マイクを握っている間に自然と口をついて出たのだという。

 初回の開票速報で、あるテレビ局が早々と「当確」を打った。「すぐ万歳してください」と頼まれたが、西川は「もうちょっと見させてください。全部のテレビ局が当確を出したら」と答えた。「風は与党に吹いていたし、自信なんかなかった。局の人は困ったような顔をしてはりましたが…」

 当選後、志高く臨んだ国会。首相指名の投票では「中曽根康弘」と書いた。

 その夜、自宅に突然1本の電話がかかってきた。「内閣総理大臣の中曽根康弘と申します」

 「弟子が取ったんですが、びっくりして、風呂から飛び出して電話に出ましたわ」と西川。その時の首相の言葉は今も忘れない。「『このたびは私の名前を書いていただいて本当にありがとうございました』と。本当に感激しました」

 中曽根も当時のことを覚えていた。「私が電話をかけるなんて珍しいんだけど、よほどうれしかったんだね」。   (敬称略)

 ■昭和61年衆参同日選プレーバック 自民党は衆院で304議席、参院でも非改選をあわせて143議席を獲得し圧勝。中曽根首相は「国民の声、天の声、神の声だ」と勝利宣言し、同年秋の自民党総裁の任期1年延長を勝ち取り、戦後4番目の長期政権(1806日)を敷いた。大敗した社会党は石橋政嗣委員長が辞任し、後任に土井たか子氏が就いた。

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by lrjhbjrh1n | 2010-06-19 09:09


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